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活動報告report


 第十五章 支援の心、全国へ発信!!
     早稲田大学合唱団創立60周年音楽会、演奏報告

1.音楽の力に目覚めた原点の精神に立ち戻る!!

 檀と村嶋が若かりし頃に奇跡の出会いをしたのが、早稲田大学合唱団でのことでした。 その合唱団の「創立60年周年記念音楽会」が10月13日(日)に東京早稲田大学構内にて行われたのです。それに2人は出席、檀のソロで支援の創作曲2曲を、全国から集まったOB及び現役の皆さんにお届けすることになりました。
 この日、たどり着いた「学生会館」は昔のイメージとはまったく違い「音楽ホール」がある立派な建物。そこにすでに全国から集まった早大合唱団出身者が約300~400人集まっておられました。大学の1つの合唱団に、60年もたってもこれだけの皆さんが来られたことに本当に誇りを感じることができました。その中で檀は<12期生>、村嶋は<13期生>で「先輩たち」として前半分の席に座ると、後部座席には現役生の<56期生~60期生>の若い熱気で占められていました。
 この日のプログラムは18演目もあり、檀の出演時間も限られたものでしたので、2つの大震災オリジナル2曲を選曲。阪神淡路大震災の「めぐる春に」と東日本大震災の「おらぁこごがいい」の、復興を願う2曲で支援の心をお届けする。 グループ演奏や多人数の合唱演奏の間での「独唱」は目立ち、その中でも檀の出番は最後の全員合唱の前の位置、いわばトリを務めるポジションでの登場となりました。  
ソロを歌いあげる檀美知生       早稲田大学合唱団現役生のステージ

 歩み出た檀はいつも以上に思いを込めて2曲を歌い上げると、ひときわ大きな満場の拍手が会場中に響き渡りました。それを聞いた村嶋は、<震災からの復興支援>のテーマは、万人の共感を得ることができるものだという確信と、やはりそのメッセージを伝える<歌の力>を感じました。仲間の皆からの賞賛の声に、檀が「音楽性をたゆまず磨き、研鑚を積んでいること」と、「東日本に13回もの音楽支援活動をし続けていること」の2つが見事に融合して歌声に現れたことへの評価をいただけました。私たちの音楽活動の原点を教えてくれた合唱団の仲間を前に、「音楽性とメッセージ性が結実した先輩の姿」として示すことができたことは、何より嬉しいことでした。そしてそこに恩師檀上さわえ先生が83歳になられても元気に指揮をされ、傍らで聴いてくださったことに深い感慨の念を持ちました。また今なお歌を愛するOBの皆さんの素敵な演奏があったことも大変嬉しかったことでした。
 
大隈講堂前檀・檀上・村嶋  パーティにてOB・現役生、椅子が檀上先生・村嶋と檀

2.東北に届けたい現役生の歌声!!

 その中でとりわけ印象的だったのが、「現役演奏」の3曲でした。早大合唱団の現役生は約200名の在籍だそうで、この日も160名ほどが出演していて、ずらりと並んだ若い顔に壮観な感じがしました。そしてもっと感動したのはその歌声でした。若々しいというだけでなく、発声も伸びやかな澄んだ歌声、4つのパートバランスもよくきちんと響いて聞こえたのに驚きました。工夫を凝らした「ライオンキング」もさながら、「島よ」には高い音楽性を感じました。 しかし個人的には「愛燦々(あいさんさん)」に最も感じるものがありました。この有名な歌謡曲は、実は陸前高田の「松田のおばぁ様」がカラオケで十八番にしている歌だったからでした。「~過去たちがまつ毛に憩う・・」の歌詞に本当に哀感がこもり、引き込まれるような歌声でした。津波で娘さん夫婦を失い、そのお孫さん3人を引き取り、息子さん一家と8人で暮らしていらっしゃる。被災で受けた悲しみを歌声に託した生活感のこもった歌でした。その同じ歌を若い皆さんが歌った時、「ああ、この若々しい歌声を届けたいっ!!」と真剣に思いました。
 早大合唱団の現役の皆さん、OBの皆さんも共に、陸前高田に行きませんか? 私たちは過去13回の訪問で、すでにたくさんの住民との繋がりを持ち、公演や旅程の ノウハウすべてを、私たちは把握しています。時期は来年の、7月末のあたりに向こうでの公演を考えています。ホームページからではありますが、ラブ・コールを送りますっ!!
 さて、後の「記念パーティ」で、OBの方々、現役の皆さんともお話しすることができ、その中で「1月12日公演に行きたい。」とおっしゃってくれる方もいました。
 最後の最後に、檀の指揮で歌った全員での「早稲田大学校歌・都の西北」、地域を越えて、時を越えての一体感ある歌声は、最高でしたっ!!
 
  パーティの最後「校歌」を指揮する檀       合わせて歌う、大合唱の現役生とOBたち


第十四章  時を越え、地域を越えて
          伝えてゆこう、大震災の記憶!!

1.東日本の子どもたちへ「手紙」は届けられた!!

 前回13回訪問活動報告の続報をお伝えします。8月8日付毎日新聞・朝刊に掲載された「Mさんの手紙」の話です。 18年前の阪神淡路大震災で、お母さんを亡くした当時中学2年生だったMさんは、神戸市立本山南中学校での村嶋由紀子の教え子でした。その後青年となった彼が、東日本の子どもたちに「励ましの手紙」を書いたという話を聞きました。その手紙を是非、陸前高田の子どもたちに届けたいという村嶋の願いを、毎日新聞の藤顕一郎記者の尽力で、 実現することができました。
 さて実現したのは7月31日の練習3日目、岩手県大船渡のリアスホールにて、でした。手紙を読む村嶋の周りに輪になったのは、小学4年生のあかり・かのん・みのり・ゆきなちゃんと、小学1年生のほのみちゃんの5人の子どもたちと松田のおばぁ様。子どもたちのうち3人はお父さんもお母さんも一度に津波で両親を亡くした震災遺児です。
 この手紙はMさんが彼女たちにではなく、「宮城県の中学生」に宛てに書いていたもので、その場で手紙を見た村嶋は、ちょっと難しいかな、と思いながら、読み始めました。
 というのは阪神淡路の「大地震」の被災体験は東日本の「大津波」と異なることでした。また(Mさんの)お母さんが亡くなる時の様子の話には、彼女たちに辛い思いが蘇るのではと気遣いました。それでも最後まで読み切ったのは、全員がじっと静かに聞き入っていたからでした。
 そして開口一番、聞いたことは「お父さんはどうだったの?」の素朴な質問でした。「お父さんは大丈夫だったの」と答えると、「ふーん」と何かを考えるような言葉少なの彼女たちがそこにいました。お母さんばかりでなくお父さんまで亡くした彼女たちの心の傷の深さを思い、同時にその惨い体験をするにはあまりに幼い彼女たちの年齢を思いました。
 それでも自分の辛かった体験を言葉にして伝え、励ます「先輩の存在」を知ったことに心を動かされたようでした。それ以降の練習で彼女たちが、一層真剣に頑張っていたことにその気持ちが現れていたと思いました。きっと彼女たちは伝えていくことを「歌声とセリフ」に託したのだと思います。





  1月公演で舞台に立つAKMYH
  (2013年7月末撮影)

2.「前だけ向いていけば必ず幸せに」M青年からの手紙!!

 ここにMさんの手紙を掲載しますので、18年前の記憶を皆さんにも思い起こし、大切なものをもう一度確かめてもらいたいと思います。

 はじめまして、こんにちは!みんな元気ですか?
 僕の名前はM。大阪で観光MAPを作る仕事をしている 31歳の男です。結婚して奥さんと2人の子どもがいます。

 僕は17年前の1月17日に神戸で起こった阪神淡路大震災で被災しました。
当時、神戸市東灘区に住んでいた僕は、家が全壊しました。
1階が潰れてしまい、2階が1階になり屋根も崩れてしまいました。
2階で寝ていた僕の上に屋根の瓦が落ちてきて、
ベッドではなく布団を敷いて寝ていた僕の上に1mぐらい瓦が積もり、 生き埋めになってしまいました。

 当時14歳だった僕は一瞬、何が起きたのかわかりませんでした。
ただすごい音とともに布団の上に重いものがのっかってきて、気がつけば体が動かなくなってしまったのです。
そして40分くらい経ってから、兄の声が聞こえてきました。

『なるとし、大丈夫か?』

 兄は僕の上に積もった瓦を一枚ずつはがして、僕を助けてくれました。
そして僕の部屋のガラスを割り、僕を外へと逃がしてくれたのです。
 外へ出てびっくりしました。
そこら辺の家が壊れ、電信柱は倒れ、ところどころで火事が起きていました。
すぐに両親が心配になりました、というのも両親は1階で寝ていたからです。
少しすると家の庭側から父親が現れました。
1階で寝ていたのですが、奇跡的に助かったのです。
 しかし母親が見当たりません。
いつも父親と一緒に寝ているはずなのに。
そして家の裏側に回ると、トイレがあった場所から母親の声が聞こえてきました。

『助けて!』

母親はトイレに行っている時に地震が起こり、下敷きになっていたのです。
上には2階がのっているので、ちょっとやそっとでは助け出せません。

『お母さん大丈夫?』と聞くと

『あと5分で死ぬ!』という答えでした。

僕は『お父さんと兄弟3人は生きているよ!』

 これが母親との最後の会話でした。
僕は母親が大好きでしたが、なぜか涙が出ませんでした。
その後の僕はあまりのショックで、夜眠れなかったり、
普段やる気が出なかったりと、暫くは大変な日々を過ごしました。


その時に学校の先生や先輩、その他様々な人から、沢山の励ましの言葉をもらいました。
今日はその中の3つの言葉を皆さんに贈りたいと思います。
ある先生は
『人生、山あり谷ありや、今が一番つらい谷の時、いつか絶対山になるからな!』
と言いました。
また、ある先輩は
『神様は耐えられる試練しか与えないんだよ。だから大丈夫!絶対乗り越えられるよ!』
と言いました。
また、ある人は
『人より苦労した人は、人より幸せになれるよ。』
と言いました。

 あれから17年。
3人の人に言われた3つの言葉は全て本当でした。
17年前のあの時が一番つらい谷だったけど、今は本当に幸せな日々にいます。
皆さんの人生がこれからどんどん幸せになっていくことを僕は願っています。

 大丈夫!くじけそうな時は、3人の人の言葉を思い出して、前だけを向いて歩けば必ず良くなると僕は信じています。家族を大切にしてください。
                              M                              


3.中学3年生のMさんから18年間持ち続けた思い!!

 中学3年生だったMさんが、当時授業で取り組んだ『震災新聞』の<主張>の記事にした彼の当時の思いは、後に「思い出す言葉」という詩にされ、来年の1月12日公演でも歌われる組曲「めぐる春に」の第2章となりました。
 この「手紙」を見て、「震災新聞」には書かれなかった記憶を知った村嶋でもありました。Mさんがあの震災の日からずっと18年間、<母の死>の苦しみを背負って生きてきたことは、「お母さんとの死の間際の会話」が書かれたことに現れているように思います。
 読むものでさえ胸に迫る苦しみの記憶です。中学生の時の彼にはまだ文章にすることのできない場面だった、でも今回、人に震災の記憶を伝え励ますことで、勇気を持って書ききった、きっと2児のパパとして頑張り続けている彼はそう思って書いたのではないでしょうか。陸前高田の子どもたちもまた、その後に続いて勇気をもって人生を切り拓いていって欲しいと心から願いました。


第十三章  行って良かったっ、13回目訪問、練習大成功!!

 「行って良かったっ!!」 これがいつにも増しての陸前高田13回目訪問の感想でした!! 今回は檀・村嶋の2人愛車に乗り、フェリーを使っても全走行距離、1060キロを走らせての、 9日間にも及ぶ大旅行となりました。<関西と陸前高田を結ぶつなぎ目>としての役割を自認、報告を待ってくれる皆さんにさっそく、波瀾万丈の楽しい旅のご報告をいたします。



1.仙台でかのんちゃんと祖母の隆子さんに再会!!

 まず私たちは7月25日に出発、夕方7時に名古屋港からフェリーに乗船、船中1泊、26日夕方に仙台港に到着。この日は<ふきのとう合唱団>の役員の方と交流、仙台にて宿泊しました。
 翌日27日(土)には、すでに「コープ共済」から仙台に招待されていた祖母の隆子さんとかのんちゃん、千葉久美子先生と合流しました。実は、かのんちゃんの亡くなられたママ生命保険の関係で、「隆子さんの話しと、サプライズでかのんちゃんに歌を」との講演に、私たちはスケジュールを合わせたのでした。もともと「生協」の全国総会で、会場は立派なホテルに650人もの会員が集合したものでした。私たち2人がステージの脇で見守る中、会の最後に「隆子さんの涙ながらの被災のお話」が10分ほどあり、続いてかのんちゃんの登場。予定外のことに会場からどよめきと拍手、そして立派に歌う姿にあちこちからすすり泣きの声、割れんばかりの拍手を受けました。
 この日のかのんちゃんは「大切なもの」他2曲を千葉先生のピアニスト付きでの出演、本人いわく「まったくあがらなかった」と落ち着いて歌い上げました。企業の宣伝招待といえども、全国地域と結び付いている生協会員たちに「被災者の姿を伝える」という役割を、立派に果たしました。





 (仙台・江陽グランドホテルにて
 檀、村嶋、かのんちゃん、隆子さん、千葉先生)

  さてほっとした3人を乗せた私たちは、一路、車にて陸前高田を目指しました。
 仙台は深い霧の中、ニュースによると「南三陸、気仙、陸前高田に豪雨」とのこと、海沿いを避けて、一関から山路に沿っていくことにしました。車で楽しい会話が弾んでいたのですが、途中、どぉーっと大雨が車に吹き付け始め、昼食のためにインターチェンジに入ったころが一番の大降り。それでもかのんちゃんがデザートのソフトを食べ終わる頃には、小ぶりになって、再び乗車。
 一関を過ぎた頃は、もう雨は止みかけていましたが川の増水が異様で、途中で何と乗用車が一台転落しているのまで目撃。陸前高田入りをすると、被災して土地が下がった所にあちこちに冠水が見られました。私たちも一日早くだったら大変だったと恐ろしく思いました。翌日の新聞にその集中豪雨の様が報じられていました。

2.カラオケで大盛り上がり、AKMYの完全復活!!

 ところが次の日は、何と晴れ晴れとした天候、しかも、す、すずし~いっ!!24度C前後の快適な気温。檀・村嶋も長のドライブ疲れもふっとび、さっそうと陸前高田の街へ!!
 この日は、練習予定より1日早く、子どもたちとカラオケに誘いました。それはいきなり「練習」より、空白期間を埋めるだけのチームとしての盛り上がりを作ることが大切だという、私たちの作戦でした。かのんちゃんと、あかり・みのり・ゆきなちゃんに、妹のほのみちゃんとおにいちゃんのみつほくんまで、それに美佐子おばぁ様の総勢9人で、大船渡(陸前高田はカラオケ店が流されたので隣り町)のお店へ勢いよく入っていきました。作戦成功は、この盛り上がりの写真でお伝えします。

3.三日間の猛練習、メッセージを込めて感動的に!!

 さて、本題のご報告へと移りますっ!!
 翌日からの7月29日(月)から31日(水)までの3日間、夏休みの子どもたちを満載した檀車で往復、猛練習を展開したのでした。会場は大船渡の「リアスホール練習場」2日、中1日は「ホテル三陽大広間」をお借りしての、朝10時から夕方5時までの練習でした。
 まず子どもたちに<コーラスミュージカル「奇跡の街」>の脚本が手渡されました。

 物語を紹介すると、あかりちゃんは「アリス」、かのんちゃんは「ケイト」、みのりちゃんは「ミユ」、 ゆきなちゃんは「ユイ」の、セリフのばっちりあるキャストたちは、すべて小学4年生の女の子たち。
 それに交じって、小学1年生のほのみちゃんが「ホノ」役で初登場。果たして彼女たちはがんばれるか、ホノちゃんは練習についていくことができるか?の心配もありました。が、昨日すでに5人のやる気とチーム力で盛り上がっており、本読みから感情を込めて、はきはきとセリフをいうことができる スタートを切ったことはこちらがびっくりするほどでした。さらに一番素晴らしいと思ったことは、メッセージのこもった場面になるほど集中力を発揮し、生き生きと表現したことでした。  今回のメッセージは「震災や津波の災害を忘れない、未来に伝えていこう」というものです。
 この子どもたちは津波でおうちばかりでなく、家族を失ったのです。彼女たちと接していて、そんな子どもたちだからこそ表現できると、信頼を込めて書き上げたものの、やはり過去の傷に触れることなので、反応には気遣いをしました。しかし練習が進むに従い、進んで被災の話をしてくれたり、亡くなった家族の話や写真をみせてくれたりもしたことは、びっくりもし感激もしました。
 また「将来の夢」も語ってくれ、今まで以上に心の中をみせてくれたことは嬉しいことでした。

4.美しく響く、子どもたちの澄んだ歌声!!

 さらに感動的だったのは、彼女たちの歌声でした。すべての思いを込めて、心に響くものがあり、澄んだ美しい歌声に心の中の輝きを感じました。千葉先生のもと重ねてきた声楽の成果、表現力の向上を感じました。彼女たちとの1年間に及ぶ、2回の公演の経験がどんなに大きなものだったかも思いました。
 また「奇跡の街」を共に歌った時、この広い被災地の中で彼女たちと出会ったことを改めて感じ、深い感慨を覚えました。その歌には美佐子おばぁ様も歌ってくださることになり、嬉しく思いました。
 今回とてもいいと思ったのは、指導を素直に聞き入れ、次の繰り返し練習ではどの子も直しができていることでした。受け入れることができれば必ず進歩がそこにある、と思う瞬間でした。
 そのおかげで、たった3日間で、立ち稽古の動きまで通しでやることができ、3日目には千葉先生のピアノ伴奏付きで「通し」までできたことは本当に素晴らしいことでした。

 最後の日には、「打ち上げ」として花火とシャボン玉をして、心の交流を図ってさよならをしました。
 ほのみちゃんが号泣して別れを惜しんでくれたことは、悲しくて嬉しいことでした。ありがとねっ!!
 その他、知り合いになった陸前高田の仮設の皆さんにもお会いして、交流を図ることができました!!どうか皆さん、お元気で!!

 こちらに帰省して、再び暑さの中に身を置くと、あらためて東北との距離、半年先の目標の時間の長さも感じます。 しかし「お互いがんばろうね、関西の大人たちが応援しているよっ!!」との子どもたちとの約束を、皆さんへの報告をその第一歩として実践していく決意に立ちたいと思います。


第十ニ章  関西での足固めをする活動、始動!!

1.大阪での「草の根」活動、『語る会・20周年行事』出演!!

  陸前高田の子どもたちとご家族を招待する公演への、関西での足固めは今が大切です!! そのためにすでに4月より「奇跡の花合唱団」を結成して、毎月2回の練習も軌道に乗り始めてきたところです。そこに、「支援活動」の講演をしてもらいたいと、声を掛けてくださる方が現われました。この方が「教師駆け込み寺」を主宰していらっしゃる下橋邦彦氏だったのです。
 下橋氏とのご縁は、実は「1月17日リサイタル」の参加申し込みをチケット完売につき、お断りする中ででお話したことがきっかけだったのです。 それにもかかわらず、下橋氏はコンサート終了後にCDとDVDをカンパ購入くださり、さらにそのDVDに感動されて是非会たいということになりました。 そして遂に自分たちの「20周年記念の集会」に、村嶋に話をして欲しいと依頼され、それならば音楽を通しての支援、檀美知生とアモーレの歌も入れた企画にしました。 2時間という、ちゃーんとした「会」、企画をDVDとお話と歌と会場の皆さんとの対話を組み込んだプログラムにして臨みました。

2.「奇跡の街」を本邦初公開、その産声が響く!!

 さて、場所は東大阪青少年女性センターの大会議室。昨日の6月23日は、前日までの大雨も降り止む曇り空。主催の「駆け込み寺」、協力の「はすの会」のスタッフの皆さん、そして下橋氏の教え子の方たちが受付をしてくださる中、用意の座席ぴったりの約50名の参加者の皆さんが集まられました。出演する側としては、「毎日新聞」にも掲載していただいた以上、赤の制服・ひまわりでいこうと、わりと派手ないでたちで臨みました。MBSのテレビカメラも入っての(報道されるかはわからないようですか)「会」が始まりました。
 まず下橋氏の司会で、村嶋・檀のご紹介、続いて10回目訪問記のDVD放映。それから村嶋から、まず「陸前高田に入って11月21日の初めての公演をするまで」の話と『私の好きなこの街』『おらぁこごがいい』の歌の演奏。さらには村嶋から「かのんちゃんとの奇跡の出会い」の話と『いつだってスタートライン』の演奏。会場からフリを共にしてくださる方たちも。これで第一部が終わって、次の休憩ですでにCDなどのカンパに応じてくださる皆さんが続々現われ、嬉しい限りでした。
 第二部は引き続き村嶋の「震災の記憶、過去の震災新聞などの報告」と『めぐる春に』の演奏。そして「支援活動のこれから」で来年1月12日の招待公演の紹介、そしていよいよ本邦初公開の「奇跡の街」を檀とアモーレで初演。これは1週間前にアモーレに楽譜を渡したばかり、1週間で早川奈穂子さんがピアノ伴奏譜をつけてくれ、この楽譜と1回の録音CDはかのんちゃんとあかり・みのり・ゆきなちゃんと、そして千葉久美子先生の元にも送付されたばかり。歌はどきどきの中ではありましたが、「今を忘れない、あなたをわすれない」「今をわすれない 百年わすれない」そして「百年忘れない、千年わすれない・・・」の所は特に胸にぐーっと響くものがありました。きっと聴いて下さった人たちの耳にも残ってくれたことと思います。この歌を歌いたい方は、どうか「奇跡の花合唱団」へ!! 

3.奇跡の花合唱団 発展へ!!

 それから感想文が一つ手に入りましたので紹介させていただきます!!
「本当に爽やかで心澄む集まりでした。
先輩教員にこんなすばらしい活動をされている方がいることは嬉しいことです。
4年前にうつ病になり退職しました。最初は死ぬことばかり考えていましたが、今快復に向かい、人の役に、社会の役に立てたらという考えを実行にうつしたいと考え初めています。
私は音痴ですが、好きで、一度「石巻」に唄いに行ってきました。
こういう心温まる場に出来るだけ参加していきたいと思っています。ありがとうございました。」
この感想をくださった方は女性の方は、会が終わってからわざわざ残って、これを書いてくださいました。
やっていたことが無駄ではなかったと勇気の出る思いです。
それから嬉しいことに若い男性と女性の方が「合唱団」入団に前向きになってくださいました。
お待ちしています!!次は来週の6月30日14時からで縲怩キ!!
 CDなどカンパ協力費をいただきました。4万円以上となりましたこと、主催・協力の皆さんを含めてご参加の皆さんに心よりお礼を申し上げます。
ご協力いただいた皆さんに村嶋手作りの「ひまわり」も差しあげました!!


第十一章  被災2年目の現実を知った12回目訪問!!

1.わずか2日の練習で本番にのぞんだ子どもたちとの交流!!

  実は、この12回目訪問に先立ち、AKMYら陸前高田の子どもたちと檀・村嶋で5月子どもの日「ミュージカル」出演するには、大きな問題が発生していました。
それはそろって小学4年生になった彼女たち、かのんちゃん以外がハードなスポーツクラブに所属してしまったことでした。陸前高田の部活顧問は「保護者たち」なので、仕事が終わって6時からの指導、終わるのは8時をすぎ、帰ってくるのが9時。土日は部活の稼ぎ時ということ、合宿もありということで、子どもの体力がヘトヘトになっている上、これではお芝居・歌の練習時間の確保が難しい。私たちが行っても子どもたちがそろわない、そうなると子どもたちの公演への意欲にもかかわってくる、との大問題でした。事前に音楽教室の千葉久美子先生の協力が得られ、4人の歌の練習状況を話合いました。そして私たち2人が出した結論は、「子どもたちのお芝居の練習は『本番前の2日間』だけにしぼってのぞむ」ことにしました。1日で脚本も歌の創作もやってのけた「奇跡」を、2日だけの練習の「奇跡」を起さねばならなくなったのでした。でもこの決意に踏み切ったのは、AKMYの4人のセリフが「雪の女王」出演を経て見違えるほどはきはきしていたこと、歌唱力もびっくりするほどの進歩を示していることへの、彼女たちの能力と意欲を(引き出せることを)信じての判断でした。
 さて、檀・村嶋の2人は5月2日に陸前高田入りして、まずは子どもたちのお家訪問、次の日に練習にがんばってくることをお約束するだけにしました。そして運命の5月3日の朝10時に時間通り、(かのんちゃんのおじいちゃまが)予約していてくれた「鳴石公民館」に、AKMYの4人(あかり・かのん・みのり・ゆきな)と特別出演のほのみ・まゆ、我々を入れて8人が集合、久々の「奇跡の花学園」の開校です!!この学校は1年のほとんどがお休み、開校はわずか年間に何日かの、普通の学校とは逆の学校です。だからまずは子どもたちとの交流をたっぷり取り入れなければなりません。子どもたちどうしも同じ学校やクラスなのにあまり一緒に遊ばないのだそうなので、友だち作りも必須。練習へのあせる気持は押さえて、たっぷり卓球をしたり、ハンカチ落としをしたり・・。脚本の読み合わせと通しはたったの1回ずつ。その間も子どもたち間に「事件」も発生して、「AKMY探偵団」の「事件解決」までにはいたりません。
 次の5月4日、明日に本番をひかえる2日目練習が決め手となってしまいました。さすがの彼女たちも「早く練習しょう。」との提案もしてきて、やる気が出てきたようです。さらに1回通しをいい雰囲気に終えたころ、ちょうど応援の練習見学の大人の人たちが数人来てくれ、緊張感も生まれて午前中に2回の通しができました。さらにご家族からのお昼ごはんの応援も受け、午後には千葉先生がピアノを抱えての登場となり、一気に明日への盛り上がりを見せ、その日の練習を終えました。そしてなんとか明日の目途を、史上最短の通算6回通しだけで付けることになり、本番を迎えることとなりました。
 
 (海音ちゃんちで全員集合、犬のさくらも)    (鳴石公民館で手作りの昼食タイム)

2.五月晴れの「子どもまつり」に響いた美しい天使の声!!

 さて明けて次の5月5日は天気の神様が味方してくれたのでしょうか、五月晴れ!!
朝の9時には、「伝承館」の広い駐車場には、すでにいろんな出店が軒を並べて準備中。家族連れもちらほら姿を見せる中で、我々は「館内」の座敷でリハーサルです。子どもたちは友だちも遊びに来ていて、まったく緊張のない様子。集中力は大丈夫かな?との心配をよそに、それがかえって良かったのかのびのびの演奏演技の出来栄えを示し、本番への期待が高まる。午後1時になり、座敷に人が集まり出すと、約束通り子どもたちはちゃんと廊下の控室に位置する。座布団席に友だちも含めてほどよい数の観客も勢ぞろいする。
 いよいよ「ちょっとだけミュージカル AKMY探偵団 謎の怪人の巻」の始まり始まりっ!!つかみの「AKMY探偵団」「朝ごはんの歌」は振付け付きで生き生きとスタート。引き続き「トゥモロー」の初の子どもたちのハモリの美しい歌声が響く。檀の<怪人>は迫力の演技と「昼の星」などを熱唱、村嶋の<関西弁のおばちゃん>の、ほのみちゃんやまゆちゃんも一緒のユーモラスな演技の支えもなかなかのもの。物語は、いじめで怪人になってしまった男の心を溶かす、山場の「今日を生きている」「変わらないもの」の子どもたちの歌と芝居で盛り上がって行く。「なかよくしょう!!」の掛け声と共に、会場の人たちとも「花は咲く」の歌声で満たされ、拍手大喝さいの大成功を収めたのでした!!
 「2日で仕上げた」の話に目をぱちくりする観客がいるほどのすばらしい息の合った演奏演技をすることができました。次の日の朝刊に、2つの地方紙の「記事」が大きく賑わしました。どんなに満足ある成果を残すことができたかは、この記事を読んでもらえればよくわかると思いますので、掲載して報告します!!
(岩手日報・毎日新聞)

3.2年目の被災地での現実から、今後を思う

 5月8日の「今の一本松」(写真)です。塩害で伐採、その後「モニュメント」として同じ場所に設置されたはずですが、「形が元のようでないと修理中」とこれは3月の11回訪問時に見聞きした情報でした。が、それから2か月後も私たちの目にはまったく変わらない姿だったことは、残念な気がしました。津波被災地の様子もまったく同じで、地元の仮設の皆さんによると「5年はかかるっぺ、めどはたってねぇ」との話です。
「一本松」はもはや生きていないものですから、どんなに時間がかかってもいいかもしれません。でも人間はその中で生きています。ましてや、1年に何センチも背が伸びる子どもたちの心も変化するのです。今回は「部活とのこと」に悩みましたが、子どもたちの状況は刻々と変化していくことも気づかされました。離れている私たちに何ができるのかを思う悩みは今回も大きかったです。でも「来年の1月12日には是非、来て欲しい、公演に出演して欲しい。」との思いを伝え、子どもたちも「必ず行く」とのお約束をしました!!が、約束はご家族の皆さんとしなければならないと思うのです。かたやご高齢の体力と闘いながら、かたや仮設の不便な生活と多忙さとの闘いの中での、子育て!!そのことへの私たちの理解と支援がなければ、成りたつものではないと、あらためて無責任にならぬように決意をもって帰ってきました。 
 ただ今回の成果は、「はこねこどもまつり」という地元行事に入れてもらえたこと、そこには子どもたちの友だちも参加していたこと、親も知ってくれたことでした。地方紙に立派にのせてもらえたことも「市民権」を得る上で成果でした。今までの「外からの人がやってきて何かをしてくれた」「その中で特定の子どもがクローズアップされた」などの評価にとどまった活動から、少し抜け出た活動を刻むことができたように思います。
これも12回訪問という、私たちの草の根活動の成果であると誇りに思いました!!


左 :今回も第一中仮設踊りの会の皆さんと交流      右 :今の一本松


                                        (岩手日報5月6日朝刊)


                                        (毎日新聞5月6日朝刊)


第十章 東日本大震災2周年復興祈念、11回目の訪問記!!

1.被災時の空気を共にしに「慰霊祭」参加

  東日本大震災勃発の「3月11日」という日に、被災地のあの時の空気、痛みを感じ学びたいと思い、11回目の訪問に行くことにしました。陸前高田の被災地は、防風林がなくなっているため、突風が吹きすさび、関西とは比べ物にならない寒さと、冷たさでした。これに津波の海水につかった時はいかばかりかと胸の詰まる思いを実感しました。
 まず、前日の「3月10日」の日曜日には「陸前高田市主催の『合同慰霊祭』」が予定されていました。これは列席はご遺族の人たちの集まりで、黙祷・献花がなされる行事でした。私たちは外からでも参列させてもらうつもりでしたが、あかり・みのりちゃんたちの祖母松田美佐子さんが、私たちの分まで参加申し込みを市にしてくれていました。さらには海音ちゃんの祖母隆子さんから、海音ちゃんのつきそい(家族代行)で行って欲しいと頼まれました。親戚でもない私たちにとって信頼された気持で大変嬉しいことでした。そして私たちと美佐子おばあちゃん、かのん・あかりの子どもたちと、5人で参列することになりました。高田小学校の校庭には立派なテントが張られ、列席の椅子にもすわらせていただきました。朝から曇り空ではありましたが、式が始まるとテントに響くほどの雨が降りました。市長をはじめ遺族代表の挨拶をお聞きし、最後に献花までさせてもらいました。子どもたちも立派に手を合わせていた姿に目頭が熱くなりました。涙を拭くご遺族の間にあって、何と多くの犠牲者がおられたのだろうか、そしてその喪った痛みに耐えて生きていらっしゃる方たちの心中も深く思いました。式が終わると、ぱっと日が照っていて、天国から涙雨を流されたのだろうか、と思いました。
 翌日3月11日は伝承館の希望の灯り前で、地震発生の2時46分に黙祷を捧げる会に、二人だけで(子どもたちは学校なので)参列しました。神戸と中継したテレビなどの多くの報道陣、そして 地元の遺族の方々のほか、俳優の堀内正美さんや川崎麻世さんなども出席していました。多くの方々の中でも、伝承館の金澤館長、佐藤会長さんは私たちを見つけてくださり、歩みよって両手で握手をしてくださったこともとても名誉で嬉しいことでした。箱根山の中腹の「希望の灯り」の庭は、昨日以上に突風が吹きつけ、「14時46分」の黙祷時には、寒さがピークとなるほどでした。犠牲者の方々の味わった寒さがいちどきに押し寄せた気持がしました。

2.地元の方々に受け入れられた嬉しさ

 この2つの行事列席でも、私たちが11回の訪問で地元の皆さんに存在を受け入れてくれた嬉しさと安心感を味わいました。翌日の3月12日は第一中仮設住宅集会所での「お茶っこの会」でも同じ気持を味わうことができました。私たちが訪ねると、仮設踊りの会の皆さんを中心に20人以上の顔なじみの仮設の方がすぐに集まってくださいました。「1・17リサイタルのDVD」とコンサートの中で映した「10回の訪問記録の映像」をみてもらい、拍手で大変喜ばれました。「お二人の活動を誇りに思うことを団員のみなさんにお伝えください」と鈴木元校長先生に何回も言われたことが、何とも嬉しく、印象に強く残りました。また仮設の中の悩みや不安の相談も受けました。心を割ってお話くださることに、苦難の生活での苦しみを感じ、ほんとに辛い気持がしました。
 それとは別の時にまた「おらあこごがいい」の作詞のタクミ印刷社長熊谷さんにもお会いして「おらぁこごがいい」をいろんなところで歌っていること、特に全国から大阪に集まる日本のうたごえ祭典でこの歌が「全国の合同曲」として歌われることが決定したことを伝え、了承を得ました。印刷での「写真の著作権」など管理されている方なので、歌の著作に関してもきちんとしなければとの思いがありました。今後ともこの歌の詩と曲(作曲権は檀ですが)の管理を私たちがきちんとすることを約束、喜んで了解してくださいました。ここでも笑顔での会話に嬉しく思いました。

3.ふたたびミュージカルに大喜びのAKMY!!

 さて、肝心の子どもたちとの交流の話です。実は彼女たちは高学年へと入ってきているので「部活」がとても忙しくなっています。特に被災地では先生方の替わりに、一般の方が顧問をしてくれるので、お仕事が終わってからの部活など、夜の8、9時間にまでなるとのことでした。 だからなかなか4人が集まることが大変でしたが、何度も横田の仮設と高田の熊谷家を子どもたちを車に乗せて往復しながら、時間をひねり出して交流しました。 まず子どもたち海音、あかり、みのり、ゆきなのAKMYの、今声楽練習(千葉教室)している曲を聞き、歌いたい歌の選曲をしました。さすが皆、習っているだけあって、澄んだしっかりした声になって、「よろしい!!」と思わせてくれました。それで5月5日こどもの日祭りで、私たちとコンサートをすることの計画も立てました。そして私たち二人の「芸当」が始まりました!!何とその夜一晩で村嶋は「AKMY探偵団」という脚本を書き上げ、檀はそのテーマソング「AKMY探偵団の歌」を創り上げ、さらには翌日、本読みまでやってのけたのでした。驚いたことに子どもたちのセリフはとても感情がこもっていてはきはきとしていました。さすが「雪の女王」でやってきただけのことはあります。地元の5月5日の伝承館でのこどもまつり行事に組み入れてもらう交渉もし、コンサートの展望をつけました。題は「ちょっとだけミュージカル『AKMY探偵団ー謎の怪人の巻ー』」としました。
 そして一番の目的だった来年1月12日のこちらのコンサートに来る意志の確認です!! すると何と何と、あかり・かのん・みのり・ゆきなのAKMYの4人と両おばあちゃんばかりでなく、双子の兄みつほ君も「僕も行く、僕も歌う」とのこと。さらにはゆきなちゃんの妹のほのみちゃんも「出る!!」とのことでした。幼いゆきなちゃんたちまでもとなると、そのママやパパも、「仕事の都合を付けて行く。」とのことになりました。ということで合計10名の、子ども6人、大人4人の皆さんが関西に来るということが決定しました!!今回の最大の目的を最高の形で果たせたのです。
 ということでこの4日間は今まで以上に地元の中に受け入れられ、これまでの草の根活動の成果での信頼関係が築かれていると実感することができました。この子どもたちの期待を裏切らないよう、これから準備の中に、共に歌う「奇跡の花合唱団」の結成が最も緊急でがんばらねばと思い、帰路につきました。


第九章 ソロリサイタル大成功!!

1・17コンサート、ご来場およびご協力の皆様へ

 日本国中、豪雪のたよりの聞かれる昨今、寒中お見舞い申し上げます。
 さて先日行われました「檀美知生 第5回テノールソロリサイタル-私の好きなこの街コンサートIN関西」にご来場、ご協力くださり、ありがとうございました。 おかげ様で、兵庫県立芸術文化センターにて阪神淡路大震災18周年1月17日、公演は大成功を収めることができました。私たちの努力だけでなく、「アモーレ」「昴」「支援合唱団」の歌仲間、早川奈穂子さんなど専門家・スタッフの力に支えられがんばりぬくことができました。しかし何よりは観客の皆様には、地元関西からばかりでなく遠くは南は熊本阿蘇、北は北海道・仙台からまでも全国より来て下さり、温かい拍手と声援、感動の涙までいただきましたこと、深くお礼申し上げます。
 今回の公演への事前の期待と反響が大きく、チケットも12月には完売の見通しがつき、直前電話にてのお申込みの約20名ほどの皆様にはお断りをすることになってしまいました。でもそのため公演当日は、足を運んでくださった皆様をお帰しすることなく、舞台の見えるぎりぎりの裏の席までお座りいただいての、ぴったり満席の観客に恵まれることができました。どんなに安堵と感謝の気持ちでステージに立つことができたでしょう。
 そしてさらにはもう一つ、今回の「支援金」の訴えに、なんと一夜で「22万円」ものカンパ金をいただくことができました。私たちもこの思わぬほどのご好意の額に、陸前高田のご家族に報告しましたところ、声を詰まらせて大喜びをされておられました。子どもたちとは「来年の1月12日は絶対、皆で来る!!」のお約束を改めていたしました。 (子どもたちは東北の小学校の遅い3学期を元気に始めたばかりです。)
 さて、来年に向けて、私たちのプロジェクトは最早、具体的課題に向かって始動しております。被災による地域の疲弊も進んでおり、また陸前高田とは余りに距離が遠く関西との意識のずれも一層進むことが予測されます。さらに子どもたちは成長の変化の著しい小学校高学年へと突入してまいります。「マスコミの力も借りる」ことも含めて、どんな動きも「子どもたちの成長にプラス」でなければとの気持を強く持っております。つきましては私たちの支援の心を時間との闘いとの中、出来うる知恵と努力を尽くしてやれる限りの継続をしてまいりたいと思っています。何卒、2人のささやかな力にどうかお力を今後ともお寄せくださることをお願いします。  本格的な寒さが襲ってまいります。どうかお体に気を付けられ、ご活躍ください。

                       2013年1月25日
                      私の好きなこの街プロジェクト
                        リーダー 檀美知生
                      ディレクター 村嶋由紀子




  2013年1月17日
  兵庫県立芸術文化センター
  小ホールにて   


 



 檀美知生と女声アンサンブル アモーレ





 支援合唱団 


第八章 関西での支援の輪、支援合唱団本格化!!

1.被災地の今を、関西で伝える活動を

18年前の阪神淡路大震災の半年後では、もはやガレキは無く空き地ばかりが目立つ街だったと記憶しています。仮設から「復興住宅」への完全移行は5年の歳月がかかりましたが、空き地の出現と並行して家やマンションがどんどん建ち始め、目まぐるしい街の変化でした。それに比して、陸前高田の街は、被災後1年半経っても海岸線にはガレキがあり、新しい家などは一軒も建っていません。最近変わったというニュースは、「耐えてきた『一本松』が永久保存のため伐採された」ということだけです。確かに陸前高田の山合いは道路工事がなされ、小さな仮設店舗や車の交通量などは増えています。だけど、立ち並ぶ仮設住宅の姿、海岸線の様子はまったく変わっていないのです。
先日、「復興予算が被災地以外のことに使われており、地元の個人企業への再建にはなかなか交付されない。」の報道がなされました。何とはがゆい、腹立たしいことなのでしょう!!私たちが知っている現地のある仮設喫茶店の経営者の方は、自腹で再建、朝から晩まで働らいても赤字経営、でも街の再建のためがんばっているとのお話でした。被災地で明るくがんばる皆さんですが、何人も体を壊している方のことも知っています。
この1年間の9回の訪問で、被災地の皆さんとの交流は深まり、音楽支援は広がりも示しています。でも復興の力になっているかというと、無力感を覚えることも事実です。8月公演に行った仲間たちと、「行政の力がもっと必要だ。」と「この現実を関西に伝えよう!!」と、さらなる課題をもって取り組んでいこうと決意しています。まずは支援の心を忘れない、支援の活動は辞めないとの決意です。なぜなら今の瞬間も、あそこには苦難の中も懸命に生きている被災者たち、子どもたちがいることを感じるからです。たとえ私たちの力に限度があったとしても、だからこそ被災地の外の人たちが、小さな力でも合わせ、被災地と連帯して支援していくことが今こそ大事だと、一層思うのです。

2.「檀美知生ソロリサイタル」への支援合唱団出演!!

 8月公演の時、私たちばかりでなく被災地へ何といろんな音楽文化団体が毎日のように行っている、ということも感じました。あの時も前後合わせると、近隣で2~3の公演が同時に開かれていたようでした。地元の皆さんが足を運ぶ体が足りなくなるぐらいです。そういう意味では私たちは、「第三回」の声に対して、「現地の皆さんの負担にならず、本当に喜ばれ、本当に力になる」今後の公演をしっかり検討しょうと思っています。と同時に「関西での支援の輪を広げる」活動こそ、今、最も大切なことだと思っているのです。秋以降の活動舞台を被災地から「関西」に切り替え、来年1月17日(木)、第18回阪神淡路隊震災復興祈念日に、「兵庫県立芸術文化センターにて檀美知生第5回ソロリサイタル」を成功に導くことにまい進していきたいと思っています。そして昨年の「第4回」の復興支援の精神以上のものを貫いた支援の心に溢れた内容のコンサートにしたいと思っています。関西の皆さんには久々の私たち主催のコンサートとなります。出来上がったばかりのチラシをご覧ください。

 檀美知生の、被災地支援公演で磨かれた感性の歌声と、支援コンサートに同行したメンバーの思いに溢れた合唱をお聞きください!!男声合唱団「昴」や女声アンサンブル「アモーレ」、そして「支援合唱団」も出演し、お届けします。 プログラムは、檀美知生ソロによるドイツ歌曲から始まり、「荒木栄・高平つぐゆき作品集」の日本歌曲のソロが第2部です。そして第3部は「コーラスミュージカル曲」の名曲の数々を檀のソロと合唱で、久しぶりにお届けします。第4部は「支援合唱団」と共に檀・村嶋で創作した復興を祈る数々の大合唱を行う、魅力あるプログラムです。

 さて、「支援合唱団」は10月から本格的な練習に入ります。陸前高田公演へ参加されてない人も、支援の心があり歌いたいとの気持の方は今からでもご参加ください。


第七章 見事なステージを花開かせた「第2回 私の好きなこの街コンサート」!!

1.準備万端、先遣隊としての第8次訪問出発!!

子どもたちの奮闘ぶりを伝えることは、関西の大人たちをより一層奮い立たせることになりました。同行メンバーはどんどん膨れ上がり、総勢53名にもなりました。今回は、「昴」「アモーレ」メンバーからだけからだったにもかかわらず、前回を上回りました。それはメンバーの家族を誘ってくれたためでした。何と夫婦メンバーが私たちも入れると5組!!一家をあげて5歳と3歳の子どもを連れての松本一家の参加も。男女比、パートバランスも、合唱力も抜群の勢ぞろいでした。


一方私たち二人は、陸前高田の子どもたちのことを心配して練習のため先遣隊として8度目訪問を8月14日からしました。子どもたちは「まだ練習するの?}という余裕の表情で待ち受けてくれていましたが、私たちとしては「大人との合わせは、前日のリハーサル1回っきりで翌日は本番」という「これが成功したら奇跡」と思うスケジュール、現実を知るものにとっては、内心ヒヤヒヤものの3日間の練習でした。

2.有料にしてもいいほどのすばらしいコンサート!!

 いったん仙台に帰り、18日の朝、片道13時間の夜行バスで来る一行を待ちうけた私たちでした。53名の参加者のうち22名はなんと往復大阪からバスでの勇気ある(?)参加者でした。片道だけでも13時間、「一生分乗った!!」との感想が出たほど!!いくらそのほとんどが男性といえども70歳以上の人がたくさんいる集団です。お元気で辿り着くことができるだろうか?との心配の中、女性の飛行機組も顔を揃え、全員無事で、陸前高田入りを果たしたのでした。私たちにとっては9度目の記念すべき訪問となりました。

 一行はまっさきに「一本松」の伐採される前の最後の姿を見、無残な「市民体育館」の前に佇み黙祷、そして「伝承館」で歌を捧げて、そしてリハーサル会場の体育館へ向かいました。そして子どもたちとの「コーラスミュージカル」の合わせをやり、合唱、さらに「踊りの会」の皆さんも集合しての合わせと、明日を万全の形で迎えることになりました。

 明けて19日(日)は、11月公演の時と打って変わって、東北にしては蒸し暑い、でもよく晴れた日となりました。踊りの会の皆さんがいち早く素敵な浴衣姿で来られ、子どもたちも家族の皆さんと元気に集合、観客・出演者も合わせて200名の皆さんが相次いで来てくださいました。いよいよ待ちに待った本番です。今回もテーマソングの「私の好きなこの街」から始まり次いで「昴」の合唱、何と力強い情熱のこもった歌声なんだろう!続いて「混声合唱。女声の統一感のある歌声と男女の集中した迫力ある歌声は観客を惹きつけている!そして休憩を挟んで、ここで「コーラスミュージカル」!!幕を開けたとたん、真っ白の衣装に身を包んでいる私たちの姿と歌声に「うわっ!」と歓声があがる。さらに子どもたちの登場に応援と感動の拍手!!なんてはきはき、いきいきとした演技なんだろう。最高の盛り上がりは天使のように愛らしい「たいせつなもの」の4人のハーモーニー!!最後は全員で「いつだってスタートライン」、創った時はこんな感動の場面を想像もしなかった。リハーサルでのたった1回の合わせは大成功!!私たちは子どもたちを両手で抱きしめたくなるほどでした。時間がフィナーレに近づく中、ラストは「おらぁこごがいい」を会場一杯の輪になっての「踊りの会」の皆さんとの総踊りで、一層の盛り上がりができました!!このひとときが永遠につづいて欲しいと思った時間でした。そのあとの交流会も含めて忘れ難い思い出のコンサートとなりました。「こんなステージを無料で見られるなんて」と観客の皆さん方はどんなに喜んでくださったことだろう。「この笑顔を見たくて、ここまでやってきたんだ!!」と心から思ったのでした。


 この子どもたちとの「コーラスミュージカル」は反響を呼び、新聞各紙で取り上げてもらうことができました。でも他のステージもどんなに素晴らしかったかを、参加メンバーに替わりここに明記しておきたいと思います。

 翌日20日は、大船渡市の「冨美岡荘」の特別老人ホームの訪問コンサートを行いました。今回は「8月の誕生日会」と合わせての公演となりました。1回目と同じように大歓迎してくださり、「次来るといってくれた所で本当に来てくれたのは皆さんたちだけ」と再度の訪問を満面の笑みで歓迎してくれました。会長さんも一つも変わることないお元気な姿で本当に来てよかったと、一同共通の思いでこの旅の帰路に着きました。ほとんどの男性は何と往復バスで26時間乗りっぱなしっ!!でも全員元気で辿り着いた、このファイトにも心からの拍手を送りたいと思います!!

<第2回「私の好きなこの街復興支援コンサート」アンケート>

・気仙大工左官伝承館の歌、初めて聞き、わが小友の町、気仙大工の誉れ、景色、気持すべて入っていて、とてもほほえましく誇りを持って生きるれる気がします。兄も気仙大工をしております。この歌を聞かせてあげたい、心の癒しの宝物として手本として届けたいと思います。「おらあやっぱこごがいい」と「気仙大工左官伝承館の歌」のCDが是非欲しいです。待っています。よろしくお願いします。すばらしいショーでした。とても良いコンサートでした。雪の女王も良かった。ただで見せていただいてとても恐縮です。また3回目お待ちしております。お疲れさまでした。ありがとうございました。
<被害>昔の家は全壊です。仮設住まいです。早く我が家に入りたいです。(60代・女性・小友町仮設住宅)
・久しぶりに美しい歌声をきかせていただいて、文化にふれさせていただきました。子どもたちの歌声も素敵で、亡くなった3人の孫たちを本当に思い出しています。
<被害>大切な主人、孫3人、弟2人、長男の嫁の母親とたくさんの宝物を失いどん底を味わっています。(60代・女性・第一中仮設住宅)
・今日で2回目のコンサートありがとうございます。前回にも増して素晴らしかったです。生まれて初めてコーラスミュージカルを聞かせていただき、感動しました。もっと多くの方が来てくれたら良かったのに・・・。私たちは大変得をしました。素晴らしい歌声ありがとうございます。またいらしてください。遠い所ありがとうございます。熊谷海音ちゃんの歌が上手になり、もっともっと上手になりますように。
<被害>家屋は全壊、夫は死亡、義弟は行方不明。(50代・女性・栃が沢仮設住宅)
・男声の声の素晴らしさ、初めてこんないい声に出会いました。とてもすばらしい合唱団だと思いました。コーラスミュージカルはとても明るくて良かったです。素晴らしいです。これからも私もできる出来る限りがんばって生きていこうと思います。今日はとてもいい日でした。
<被害>なかなか復興が進まないので、ゆっくりとながめ考えていきたいと思っております。私は自営業を細々と手伝い、主人が63歳で半身不随の脳梗塞にかかり9年の看護生活をしていて津波に遭いました。津波は恐ろしいです。親子三代築いた資産すべて持ち去ってしまうので悔しいです。震災後食べ物がなくて本当に困りました。今でもあの時のことは一生忘れないと思います。(70代・女性・仮設住宅)
・すばらしかった。私合唱団を主宰しています。伝承館の歌感激いたしました。是非CDを発売してほしいです。大人数うらやましいです。(70代・女性・陸前高田)
・死んだ兄を思い出して涙が出ました。兄も混声合唱で大学時代指揮をしていました。全体とてもよかった。(70代・女性・高田町栃が沢)
・今日は本当にいやされました。来て良かったと思います。ほんとうにありがとうございました。被災後東京にて足の治療をして今は元気に過ごせることに感謝しております。(70代・女性・第一中仮設住宅)
・職人の詩が素晴らしい。本当にありがとうございます。全部良かった。最高に元気と希望を頂きました。踊りの会のメンバーの宿六です。
<被害>マイホームすぺてを失いました。皆さんのお気持ちを有り難く受け止め無理をせずガンバ! (80代・男性・第一中仮設住宅)
・最高でした  
<被害>津波で全部流されました。普通なら死んでいると思うが食べ物も用意していただいてありがたい。しかし先が見えません(70代・女性・横田仮設住宅)

・初めてミュージカルを見させていただきました。すばらしかった。大変良かったです。もう少し子どもたちの出番があったらよかったと思います。
<被害>未来ある子どもたちがもっとおだやかに、そして強く生きていける心のケアを望みます。今日の日は私も忘れません。これからもがんばってくださいね(60代・女性・宮城県・新聞をみて)
・ピアノの音が強い気がした。全体的に力強く良かったです。また来高できることがありましたら、高田市民歌も歌ってほしいです。(60代・女性・第一中仮設住宅)
・大変よろしい。<被害>全部流されて今は仮設。旦那なくなって一人になって足も不自由。これからもどうぞよろしく。(70代・女性・仮設ちらしをみて)
・本格的!すごい!! (20代・男性・大船渡市)
・ありがとうございました。勇気がでました。(30代・男性・大阪から出向中)
・とてもよかった。2回目です。全部いい(70代・女性・高田町)
・みんな良かったです。なかなかこんなの見られませんから



第六章 子どもたちとコーラスミュージカルの練習のための第7次訪問!!

1.夏に「大きなコンサート」を企画

 檀・村嶋は前述5月公演を経て、「もう一度多くの関西の仲間で現地公演をしょう。あちらとの結び付きはその前提を作った。」と判断し、「第二回 私の好きなこの街コンサート」を企画しました。前公演の中心になってくれた「昴」や、CD吹きこみを共にしてくれた「アモーレ」へ提案、呼びかけを強めて行きました。「再びあの地へ」の気持は支援の心で溢れた仲間に伝わり、参加メンバーは固まっていきました。日程は8月19日(日)、場所は前回と同じ第一中学校講堂とするところまでこぎつけることができました。

今度のプログラムは現地の皆さんも是非のってもらいたいと、「第一中学校仮設踊りの会」出演の承諾も得ました。「おらぁこごがいい」曲に、向こうの方なら誰でも知っている「高田音頭」の振付がぴったりということがわかり、私たちの歌で踊ってくださるとのことになったのです。

 そして5月のライブであの4人の子どもたちの可能性を確信した村嶋は、帰省後、1本の脚本を書き上げました。題して「コーラスミュージカル 雪の女王 支援コンサート版」でした。アンデルセン作の童話をヒントの、40分のオリジナル作品でした。人間の地球環境破壊(放射能汚染などの現実を入れて)に怒った「雪の女王」にさらわれる4人の子どもたち、それを助けに向かう大人たち、苦難の旅の果てに会いの力で再び巡り合うというストーリーでした。むろんAKMYの出演を考えてのことでした。大人の部分は、檀と村嶋を含む「アモーレ」で引き受け、こちらでの練習も開始されました。また同行の合唱メンバーは「支援合唱団」として合唱練習に打ち込むことになりました。子どもの出番の

2.何とのりのりの楽しい練習!!

練習は檀・村嶋の7回目訪問で練習することになりました。子どもたちの夏休み入りを待って、終業式の7月25日の午後から、4人の練習は開始されました。私たちも子どもたちもいい緊張関係を持って、脚本が手渡され、セリフの第一声から始められました。シーンは5つ「シーン1はけんかして女王にさらわれる場面」「シーン2は閉じ込められ絶望から励まし合い希望を持つ場面」「シーン3は女王と対決する場面」「シーン4は家族と無事巡り合う場面」でした。初めの場面から、けんかはとてもリアル(のりのりの憎たらしく)で、シーン2は歌での登場もあったのですが何と練習から涙が出るほど、シーン3・4は「本役の大人」なしでもこなしていきました。さらに嬉しいことには、お友だちの、りこちゃん・あこちゃん姉妹が「テラテラ鳥」というユーモラスな鳥になって加わってくれました。夏休みになっていたので、まるで合宿のように朝から夕方まで集会所を確保していただき、お昼はおばあちゃまたちの手作りお弁当を輪になっていただきました。その間には「お勉強の時間」や「遊びの時間」も入れながらも、ほぼ28日までみっちりの練習に励みました。意欲と熱気に溢れた、ハードでありましたが、ほんとに十分な手ごたえのある練習を展開したのでした。


第五章 AKMY結成に繋がった第6次訪問!!

1.檀・村嶋コンビで創作3部作への情熱!!

 前述した「おらぁこごがいい」は地元の皆さんの要望で、1月に結成した女声アンサンブル「アモーレ」と檀美知生とでCD化し、5回目訪問時に第一中学校仮設集会所での「お茶っ子うたうの会」でお披露目をしたところ、飛ぶようにCDを求めてくださいました。
前回初めて「伝承館」を訪れることができ、「希望の灯り」の灯る庭と趣のある古民家、豊かな自然に包まれた箱根山、「津波に遭ってもなおここがある」ことに感動した私たちでした。そこで村嶋作詩・檀作曲で「気仙大工伝承館の歌」を創作したのは3月でした。
そしてまもなく3月11日の復興1周年がやってきました。その頃、電話の向こうから、「あの時を思い出して涙が止まらない・・」という切ないお話が入ってきました。どうして家族の死を知ったのか、そしてどうして「新しい家族」でのスタートがはじまったのか・・・。
私たちは、父も母も無くした少女と引き取った祖父母の胸のうちを思いました。そして「心の傷ついた子どもたちへのエール」の歌が湧き出てきたのです。どんなに悲しいことがあっても、それは明日に向かっていく「いつだってスタートライン」なのだ、「フレー、フレー」との掛け声の歌詞は自然と出てきたフレーズでした。これは歌の勉強を始めたかのんちゃんに歌ってもらいたい、と3月末にプレゼントしたのでした。そして季節の良くなった5月に同じ「伝承館」でこの2曲のお披露目の「檀美知生のソロライブ」を開く企画を立てたのでした。むろん村嶋・かのんの司会で!!

2.「ママの日」に響いた母を思う歌声!!

 開催日が5月の第2日曜日の「母の日」であることを気づきもしないで、「5月13日(日)にコンサートをしよう!!」との連絡を入れた時、かのんちゃんは即座に「その日はママの日だ。」と言ったのでした。そしておばぁちゃまから、彼女が昨年も「母の日」を忘れずカーネーションの鉢植えの購入を希望し、それをお庭に地植えして花が再び咲いた時「ママの花、ママが見ている」ととても喜んだというお話を伺いました。この心に感動し、そしてたくさんのかのんちゃんなどのこどもたち、そして大人たちもまた、「母」を思っている!!そうだ、コンサートは「母の日に捧げる」としょう、カーネーションを100本(造花でしたが)準備し、会場の人に全員持ってもらおう、曲目も「マンマ」「かあさんの歌」「わが母の歌」など思いの溢れる曲目にしました。

その準備も含めて5月11日に6度目の陸前高田入りをした私たちに、とても嬉しいことが待ちうけていました。それは、前述した松田さんのお孫さんの中の、ご両親を津波で亡くした双子のあかりちゃんとみのりちゃんそしていとこにあたるゆきなちゃんの3人が、かのんちゃんと一緒に歌いたいと言ってくれたことでした。3人は1月のコンサートでのかのんちゃんに刺激を受け、同じ音楽教室の先生に習い始めていたのでした。この嬉しい出演者たちと、その先生である千葉久美子先生も駆けつけてきてくださっての初練習でした。この時ふと、4人のイニシャルが「AKB}ならぬ「AKMY」であることに気付き、命名したのがこのグループ名(子どもたちは大気に入り)の始まりでした。

当日は五月晴れのチューリップ満開のさわやかな日に、「伝承館ライブ」が行われました。前回ご出演くださった大塚和子さんや「まつぼっくり」など地元の皆さんも来て下さり、80名のほぼ満員の会場に、檀美知生の母の歌の数々が響きました。司会は村嶋と、かのんちゃんに加わった3人もお手伝い、可愛さと温かさ一杯のコンサートとなりました。そして私たちの創った「いつだってスタートライン」が振付入りで歌われると、会場の盛り上がりは最大となりました。この時も地元を中心に新聞報道でたくさん取り上げてくれました。(写真資料)コンサートは観客の皆さんばかりでなく、やっている私たちもほんとに楽しいものとなりました。一段と歌がうまくなったかのんちゃんととても声のそろった3人、しっかり口を開け熱心に、大きな声で伸びやかに歌う姿を見て、「この4人ならもっと何かの力を引き出すことができる!!」と確信、「もっと楽しいことをやろうっ!!」と提案し、子どもたちも大乗り気での別れとなりました。


第四章 2012年の始まりは「希望の灯り」へ!!

1.陸前高田の人たちと直の交流始まる!!

帰って知り合えた被災地の皆さんと連絡を取るようにしました。その中で真っ先にお手紙を出したのは「かのんちゃん」のおうちにでした。そして詳細がわかってきました。かのんちゃんは、仙台でお父さんもお母さんも一つ年上だったお姉ちゃんもお母さん方のおばあちゃんも、一家4人をいっぺんに津波で喪って、引き取られた所が(何と同じ被災地の)陸前高田のお父さん方の祖父母だったとのことでした。あの歌声の中にけなげな「うちがんばるよ」の気持が込められていたことがわかったような気がしました。その後12月 15日(日)の「NHKスペシャル・震災遺児のその後」としてテレビで大きく取り上げられ、今やたくさんの人が「かのんちゃんの存在」を知ることになりました。でも私たちは自分たちから分け入ってあのコンサートを開き、しかも自分から歌うことを言ってくれたからこその「奇跡の出会い」だと今さらに思うのです。村嶋は心のケアの経験から、「歌うことが今のかのんちゃんの心のケアと能力を伸ばしていくのではないか」との提言をおばぁちゃまにしたことがきっかけで、「音楽教室」に通うようになり、歌うことがもっともっと得意になっていくことになったのです。
さらにあのコンサートに来て下さった方々との電話などの交流が生まれ、その他の皆さんの状況が鞫曹゚るようになりました。その中に松田さんというおばぁちゃまがいました。松田さんは、娘さんご夫妻一家5人を津波に流され、消防士だった娘さんの旦那さんは未だ行方不明だということを教えてくれました。陸前高田の消防士さん51名のうち生存者はたった2名、きっと最後の最後まで住民の避難の手伝いをされていたのでしょう。あの街の傷跡の深さを知る話の一端です。かろうじて学校で避難していたその3人のお子さん(松田さんにとってはお孫さん)を引き取られた。そしてご自身も同居されていた息子さん一家の家も流されたので、息子さん一家5人と、娘さん方のお孫さんと合わせて8人家族で仮設で暮らしているとのことを教えていただいたのでした。そのご家族の中に、かのんちゃんと同級生の、あかり・みのり・ゆきなちゃんがいたのですが、その時には翌年の深い交流に繋がるとは思いもしないことでした。

2.神戸の復興祈念の日に逢いたい、5回目の訪問の提案!!

一方、同行されたピアノの山下和子さんのもとにお手紙が届きました。陸前高田で合唱指導されている大塚和子さんという方からで「『おらぁこごがいい』の二部編曲の楽譜を、自分の合唱団のために欲しい」とのこと、そして「大切な団員を喪い、リーダーの方が未だ行方不明」であることも知りました。そこで、私と檀とで、ある提案のお手紙をしました。それは陸前高田に「合唱団を再生する」ため、その誓いを1月の阪神淡路大震災祈念の日に、陸前高田にできた復興のための「希望の灯り」分灯の碑のところで数人でも歌いましょうとの、素朴な提案でした。ところがその碑のある「気仙大工伝承館」の室内をコンサート会場に提供いただけるとのこと、大塚和子さんがその提案に練習を再開されたとの朗報が入ってきました。大塚さんは傷ついた心を抱えながらも前に一歩歩みだす決意を持たれたというのです。さらにはこの話に、高平つぐゆき先生を喪っての<仙台・合唱団ふきのとう>の皆さんが約20名で参加してくれるとの意向を示してくれたのです。このささやかでも立派な様相を呈してきたコンサートで、被災地に歌を蘇らせ、歌で復興の勇気を湧き立たせたい、と思いました。そしてかのんちゃんに一緒に歌の出演と「村嶋と司会をしょう!」との電話を入れたのです。そしてまだ1回しか会っていなかった私たちに、「喜んでやる!!」との返事が返ってきたことは何とも嬉しいことでした。

3.全国紙一面トップ記事となる大反響のコンサート!!

 明けて翌年2012年1月15日、「気仙大工伝承館」の美しい「希望の灯り」のあるお庭を前に、「希望の灯りコンサート」は開かれました。冷え込む寒さの中でしたが、幸いにもきれいに晴れ渡った日曜日のお昼間でした。大塚和子さんや「伝承館」のご尽力で、古民家の土間から部屋を開け放した会場にぎっちりの地元の方々が山の上まで訪れてくださったのです。そして再生された地元合唱団「まつぽっくり」や駆けつけてくれた「仙台ふきのとう」の皆さんの熱気ある演奏、檀のソロ、そしてかのんちゃんの自信を増した歌声と、村嶋・かのんの息の合った司会で、楽しいコンサートは大成功となりました。そしてそこには新聞マスコミの各社も駆けつけてくれ、話題で持ちきりにしてくれたのでした。何と毎日新聞は全国日刊紙の一面トップ記事で飾ってくれました。(写真)その他にも「岩手日報」「東海新報」「河北新報」の地元新聞にも大きく取り上げてもらいました。(写真)このことは、私たちのささやかなコンサートと活動を広く広めてくれ、関西ばかりでなく全国からも反響がありました。そして一層の責任と情熱を持って、プロジェクトを進めていく決意に立って、帰路に着きました。

第三章 「第一回 私の好きなこの街支援コンサート」開催準備のための第3次訪問!!

1.ソロリサイタル成功の力で「支援プロジェクト」本格化!

 支援プロジェクトは、11月18日(金)~20日(日)に千葉県での「日本のうたごえ祭典」に参加が決定していた男声合唱団「昴」を中心に、その翌日22日(月)に、陸前高田まで足を伸ばして、支援公演を行うことを提案、決定しました。その意義を見出した仲間たちは女性も含めて34名になりました。あわてたのは宿泊所の陸前高田の「ホテル三陽」の収容人数がマックスになってきたことでした。まさか寝袋というわけにはいきません。  一方、こちら側から「陸前高田教育委員会」にメールを打って、公演をしてもらえる「学校」を探っていきました。はじめは、小中学校の生徒さんにも聴いてもらえたらと、授業内での公演を希望しました。しかし被災の年は学校再開も遅れ、混乱が続く中、先生方はただただ元の生活にするため必死で不足したカリキュラム時間を確保するかに頭を悩ましていて、難しいとの判断をしました。私たちの情熱のスイッチを切り替え、被災者の大人を対象にし、学校は場所だけの提供をお願いしたところ、待望の場所提供受諾は「第一中学校体育館」との返事をいただきました。

 この公演準備のエネルギーは、10月10日(月・祝)には兵庫県立芸術文化センターにて、「第4回檀美知生テノールソロリサイタル」への力と共に存在したものでした。被災地訪問は、テーマの「愛と平和の絆」の思いを演奏に反映させました。特筆はあの有名な「落葉松」を脳裏に刻まれた「一本松」に置き換え、切々と歌いあげたことです。またソロと合唱では、檀上さわえ氏の指揮で、阪神淡路大震災組曲「めぐる春」と組曲「無言館」を歌い上げ、観客の心に感動を刻みつけることができました。合唱団TERRAは長年(檀上・檀声楽教室で)訓練された歌声を、私たち二人が追求した精神で歌い上げ、22年間の仕上げを大成功のうちにさせました。栄光あるTERRAの歴史をこの形で記せたことは大きな喜びであり、思い出深いことでした。 

 この喜びの取り組みと同時に私たちにとって深い悲しみもありました。一つは、由紀子の実母(檀の義母)が11月初旬に亡くなったことです。(これとほぼ同じ10月下旬に仙台の高平つぐゆき氏も亡くなられたのでした。)私たちはこの悲しみを「母がくれた時間」とより強く感じて、陸前高田へ向かう意味を見出そうとしました。

 2.一人でも多くの観客に来ていただくのための先遣隊入り!!

 30名以上の人たちの宿泊、食事、そしてトイレの場所でさえ傷ついた被災地ではままならぬ、まだ震災7か月目の現地の現実がありました。また公演開催にあたっての最大の懸案は、「11月22日の月曜日、夜公演」しか組めなかったことでした。どうしても「千葉の祭典の出演をしてからの出発」という前提は、「その翌日の夜公演にしかならない」という日程からでした。寒さも増した11月下旬の夜、街灯も津波で流された足場の悪い真っ暗な街を、高台の道を、果たして何人の方が来てくれるだろう?こうした問題を少しでも解決できるよう先遣隊として私たち二人は実施日の約1週間前の11月16日~19日に、3度目となる訪問をしたのでした。
 これより2週間前には、現地の「タクミ印刷」で公演チラシ・ポスターを5000枚印刷してもらい、知りうる限りの地元小中学校、店舗への配布はお願いしていただいていました。でもそれがどけだけの効力を発揮しているか行ってみないとわからない・・・。
 着いてすぐ、会場となる「第一中学校」を視察させていただきました。この体育館は、まさに大震災の3月11日にリニューアル完成式した(そしてその日から避難所となった運命の体育館)という新しく広く、とても響きのいい会場でした。すでに中学生たちは通常の授業をしており、玄関には全校生の合作の「一本松」の力作の絵が飾られ、復興の息吹が感じられる学校でした。でも一歩外に出ると、校庭には150戸もの仮設がきっちりと建てられ、私たちの過去の震災光景を思い起こさせました。
私たちは各仮設住宅を車で回ってだいたいの位置関係を掴む努力をし、仲間が来たら公演宣伝をする範囲を確認しました。私たちだけでも公演案内を出来る限りしておこうと、冷たい風が吹きつける中、仮設にチラシ片手に声をかけていきました。中から素朴な東北弁の温厚なお年寄りの方々が対応、快い返事をしてくださり、何か勇気をいただいたような気がしました。
 予定では11月22日(火)には、隣りの大船渡市の老人ホームの「富美岡荘」でも訪問公演をことになっていましたので、この時は大船渡市にもはじめて足を伸ばしました。海際はやはり津波被害は甚大なものでしたが、街は山の方へぐーっと入り組んでいた分、被災は限定された範囲だったようでした。陸前高田のいろいろな機能をカバーする大切な役割も果たし、2つの市できっと支え合っているのだと思えました。そして 先遣隊として限定された日程の中でやり終え、「千葉の祭典」へと合流、出演を果たしたのでした。

3.その後を形づくった「 支援コンサート」の大成功!!

 「私の好きなこの街コンサート」の関西からのメンバーは、男声合唱団「昴」のメンバーを主とした24名、それに女性有志(絵手紙作家の永井喜代子さんも加わった)8名に、ピアニストに山下和子さん、仙台からPAとして高橋賢治さんの合計34名のメンバーそろって、千葉から一路バスで仙台へ、そして翌日陸前高田入りを果たしたのでした。関西の仲間にとっては初めて目にする被災地の惨状に、(私たちが初めて目にしたのと同じ)衝撃が走ったのを感じました。でも皆はその重い現実を受け止め、入って行った仮設団地や鳴石町の一戸建ての家々を2~3人一組で、公演お誘いに回っていきました。後で皆が「見ず知らずの家に入って行くのは抵抗があり、勇気のいることであったが」の前置きの後、「話をしてくれる住民に、嬉しくなって次々入っていけた。この呼びかけ行動が本当に良かった。うたごえの原点の活動だった。」と感想が述べられました。あの時、仲間がいることの心強さ、皆の頼もしさを感じました。来ていただけそうな感触は掴めたものの、その日は何と初雪の舞う冷え込みが激しくなりそうな予感の夜でした。寒さ対策として第一中の門間副校長先生が、大きな温風の暖房を用意くださったことは、本当に有り難かったことでした。活気のでてきた私たちは、「第一中学校」へ会場作り、リハーサルと進めていきましたがその最中、開演1時間も前から観客の皆さんが姿を現してくださったのです。そして本番スタンバイをした目の前には、何と150名以上の観客がいらっしてくださったのでした。「私の好きなコンサートへそうこそ!!」の歌声から始まり、「昴」の男声合唱、「混声合唱」・・・、熱心に時にうなづきながら聞き入ってくださる観客に導かれるようにそして飛び入り歓迎の「うたう会」、そこで私たちは一人の少女と運命的な出会いをしたのでした。

4.少女が歌に求めた生きる力

 突然の飛び入りでした。もっとびっくりしたのは、少女を抱きかかえるようにおばぁちゃまの言葉でした。「この子は、パパもママもおねぇちゃんも津波で流されてしまって、でもがんばっていることを示したいからどうしても歌いたいというのですが・・・」少女は皆の前に歩み出て、まったくのアカペラ(無伴奏)で歌いだしました。「三日月スマイル・・」と繰り返しの歌声だけは聴きとれるのですが、余りにか細く切ない歌声でした。ただ、歌いたいという意志だけは私たちの胸に迫ってきて、会場中が静まり聴き入りました。そして長く阪神淡路大震災の生徒の心のケアに携わってきた村嶋には、「やっと逢いたい子どもに出会えた!!」との思いが込み上げてきた瞬間でした。

 さらにその後、檀美知生のソロのステージで大感動を呼んだのが、地元熊谷千洋氏の詩に檀が作曲した「おらぁこごがいい」の初お披露目でした。地元の皆さんが涙を流して、歌に聴きいってくださり、あとでCDや楽譜が欲しいとの申し出があったほどでした。そしてささやかですが、手作りのおみやげを手渡しながら、感謝と温かい交流の握手の中で思い出深いコンサートは大成功のうちに終えることができました。そして村嶋は少女の「かのんちゃん」という名前と住所を聞いてお別れしたのでした。

 翌日には大船渡の「富美岡荘」という特別老人ホームでのコンサートでは、入居されているお年寄り200名、会場ぎっちりの大歓迎を受けて、これまた素晴らしい思い出を作ることができました。この施設も「大震災から何カ月も」避難所として被災者を住まわされ、私財をひねり出して救援活動をされたとお聞きしました。職員の皆さん、特に90歳を越えていらっしゃることが信じられないほどの会長さんのエネルギー溢れるお話に、こちらがかえって励まされるほどの気持になりました。
 手を振って見送ってくださる被災地の皆さんに、深い心を残しながら帰っていく私たちの胸に一つの言葉が宿っていました。これが支援の始まり、支援の第一歩・・!!


第二章 「絵手紙」と義援金を手に、第2次訪問!

1.関西での支援を、「絵手紙コンサート」開催を!!

 すでに東日本大震災勃発より前に予定していた「絵手紙コンサート」開催が8月に迫っていました。絵手紙作家の永井喜代子氏著書「心のかけはし」(2011年2月出版)に触発され、絵手紙を歌声に置き換え、「愛と平和の絆」を広げる『絵手紙コンサート』を企画し、神戸・阪神・大阪の協力団体に参加を呼びかけていました。その結果、主宰の「合唱団TERRA」の他、男声合唱団「昴(すばる)」、「西宮さくらんぼ合唱団」、「夢クラブ」、「とよの合唱団」の5合唱団、及び「芦屋朗読の会」「NPO虹のかけ橋」を合わせた7団体が参加を表明してくれていました。当初の内容では、永井さんと10年間、絵手紙を通して奇跡の成長を遂げた重度の知的障害を持つ青年、福岡在住の三牧英範さんとの交流へと向けられていました。しかし大震災勃発でさらに「この心かけはしを東日本へも発進しょう!!」との内容が加えられたのです。 8月14日、西宮プレラホールで開かれたコンサートには、会場がほぼ満席になる、270名の出演・観客の人々であふれ、温かくやさしい歌声のかけはしを響かせることができました。(写真)その中でも「絵手紙」(作詩村嶋由紀子 作曲檀美知生)「風の花の色」(詩三牧英範 作曲檀美知生)の2つの創作曲は感動を呼びました。そして何百もの参加者のメツセージカードが、永井さんが書かれた大きな絵手紙に付け加えられ、見事な東日本の被災者激励の「大きな絵手紙」が6枚も完成しました。(写真)さらには270名の参加者から約6万円の義援金が寄せられました。この義援金に収益金やその他のカンパ金など合わせ、すぐにでも送り届けたいと、檀と村嶋は、「顔の見える被災地の方々」にお会いするため、また「現地公演」への予備調査の意識を持って、2度目の訪問を予定しました。 第1回目の訪問以降、村嶋が「心のケア担当」だったことも大いにあり、陸前高田の子どもたちのことが一番頭にありました。そこで陸前高田市教育委員会の当時の「学校復興のページ」から、9小学校・6中学校に1647人在籍していること、そして「津波直後に学校にいた生徒は全員、避難できた」との情報を知りました。となると、街の中心街で津波に襲われた1700名以上死亡・不明の犠牲者は、働き盛りの子どもたちの親御さんである確立は高く、となると家族を失った数多くの子どもたちの存在が、おぼろげながら浮かんできたのです。そこで支援金の届け先は「教育委員会」に役立ててもらおう、とコンタクトを取りました。遠い地の状況がつかめないままの、おそらく被災で大混乱されているであろう相手への、「お会いしたい」との唐突なメールでした。阪神淡路大震災で最も被災が激しかった学校に勤務していた村嶋の経験から、それが大変面倒なことであろうことも推測できました。でもその背後にいるであろう人々(特に子どもたち)に会いたい気持ちは一層、大きくなっていましたので、行く予定日を決定してしまってから、返事をじりじりして待っていました。そして遂に行く前々日に「対応の約束」メールを頂くことが出来たのでした。

2.2度目の陸前高田入り、建ったばかりのプレハブ市役所へ
 檀・村嶋の2度目の訪問は8月22日の朝、陸前高田の街の山合いを行くことになりました。今度は避難している人々の生活圏に足を踏み入れる、ドキドキする気持は前回以上でした。プレハブでできたばかりの<仮市役所庁舎>を探し当てました。
 この仮設の建物に市のほとんどの行政機能を集中させている様子で、この時はその一階の一角の一室に20人程のメンバーだけの<教育委員会室>がありました。たくさんの人材の損失がうかがわれる佇まいの中で、ただ忙しくもくもくと仕事をされている様子に、話しかけるのが躊躇されました。約束の「教育課長には5時に会う」間の時間に「仮設住宅や小中学校を訪問したい」との申し出をしましたが、外から見るだけと言われました。現在(移転や合併した)の小中学校の所在をマジックで書きいれた簡単な地図だけいただき、車を走らせました。現在のこどもたちの状況を知りたい、避難、仮設の様子を見たい、現地公演が可能な講堂・体育館もと、5-6ヵ所の小中学校を見て回りました。浜辺はすべて津波に流されていたので、小中学校は高台にあり、その校庭にはぎっちりと仮設住宅が建てられていました。(写真)でも外からでは人っ子一人見ることができず、苛立ちを覚えました。息をひそめて生きている人たちの孤独を思うとドアをこじ開けていきたい気持ちになりました。さらに旧市街中心地だった海辺の被災地にも足を運ぶと、はるか彼方に見える「一本松」、見渡す限りの荒野、ガレキの山・・・、前回と違うのはそのガレキの山の高さが高くなっていたことぐらいでした。海辺の「気仙中学校」とかろうじて読み取れる校舎の、津波にぶちぬかれ、傾いたままの姿(写真)に胸のえぐられる気持ちになりました。立ち寄った住田のボランティアセンターでは、たくさんの若い人たちが頑張っている姿にお目にかかれてほっとしましたが、そのほとんどが他府県の人たちであったことも事実でした。(写真)被災地の様子に疲れ果てた気持ちにもなりましたが、5時になり、教育委員会に戻り教育課長と係長さんにお会いすることができました。

 絵手紙コンサート参加者メッセージ入りの永井作の大きい絵手紙6枚、永井喜代子著「心のかけはし」本100冊、義援金20万円を手渡しました。絵手紙を広げお見せすると、「きれいですね!」と感嘆され、喜ばれました。子どもたちの励ましのために「心のかけはし」の本と共に、各学校にとの要望に快諾を得ることができました。さらに義援金は学校復興基金に入れさせてもらうということでした。 物資も義援金でも阪神大震災の経験では、送付されても被災地に手間をかけたり、人で不足で場合によっては放置もあったことの経験から、「顔の見えるこちら」の誠意を示して「顔の見える相手」にきちんと受け取っていただいたことを本当によかったと思っています。(20万の義援金を渡すのに自費の10数万かけていくのは不合理といえばそうだったのですが)さらにこのご縁が「支援コンサートIN陸前高田」に繋がるようその企画案も手渡してきました。どこかの学校で、生徒たちとそこの仮設におられる方を観客対象にという話となり、何か先に、被災者の皆さんとの交流コンサートが見えてきたことに希望が見える気持ちでその地を離れました。


第一章 プロジェクト誕生を決意させた第1次訪問

1.衝撃の被災地の光景、そして誰一人として会えなかった!

 檀・村嶋は、被災後4か月の7月3日(日)の朝、花巻から現地に入り、レンタカーで内陸部から、海岸線のう回路を使うことなく「陸前高田」の道へと初めて入りました。近づくにしたがって山合いにブルーシートに覆われた家が点在、田や畑に実りはなく、人の気配の感じられない、それでも「穏やかな」光景の中を行きました。その様相が一変するのは海岸線に出た所からでした。表現すると「きれいに整地された建設予定地」のような、360度が見渡せる平地、そしてあちこちに<がれき>の山の町が少しずつ見えてきました。道だけは広くどこまでも海岸線につながっているといった感覚の道でしたが、私たちが乗り入れた所は、この町の中心街だったと後で気づきました。やがて生々しい傷あとのビル(漁協や旅館、公民館や体育館など)がいくつもゆがんだ無残な姿で横たわっているのが目に入ってきました。あきらかに高い津波にあったことがわかるように上の階まで窓がぶちぬかれ、人っ子一人いない無人の街が存在していました。さらに進んでいくとかなり仕分けられた<ガレキ>が目に入ってきました。<へちゃげた車の山><取り外されたたタイヤ><鉄くず><木片>・・・などです。ずっと後に、この仕分け作業がこの時期大切だったということも知りました。ただ所々で重機も動いてはいましたが、津波がなめつくした、見渡す限りの荒野の町、「死の街」という感でした。そして「ここにいた人たちはどこに行ったのだろう?!」誰かに話しかけたい衝動に駆られながら、ただ荒野をさまよう私たちの前に、音もなく車が近づいてきました。それは「大阪府警」のパトカーでした。きっとまだ至る所、通行止めになっている危険な地域にいる私たちを不審に思ったのか、話しかけてくれました。やっと会えたのは同じ関西からの応援の警官であることに、残念な思いとホッとした気持ちが混ざりました。その時尋ねられるままに、「音楽で文化ボランティアをしたいと思って来た。」と言ったことを今でも覚えています。言葉にならなかった思いが偶然の出会いで形になった瞬間だったと思います。丁寧な対応の警官に「一本松」の所在を尋ね、「パンクをしないように」との注意で車を海岸に進めると、遥か彼方にぽつんとあの松が見えました。こんなに遠くても見えてしまうほどのたった一本!!7万本の松もあったという名所の、観る面影もない姿でした。なんとか蘇らせたいという現地の人々の、包帯を巻くように保護している姿がより胸を打ちました。しかしその「一本松」の周囲でも誰にも会えませんでした。


 人を拒否しているような被災地の中で、吹きっさらしの風ばかりが私たちを取り巻きました。それはごうごうと嗚咽のような人の声に聞こえました。それに私たちはどこかで呼びかけてくれている人たちの存在を感じ、「ああ、ここに住んでいた人たちに逢いたい!!」「私たちの歌声を届け、支援したい!!」と、はっきりとした気持が込み上げてきました。この日は、仙台で入院中だった故高平つぐゆき氏(その3か月後に亡くなられた)に、檀上さわえ氏と共にお見舞の予定だったため、その地を離れることになりました。しかし脳裏に焼き付けられた「陸前高田」の姿は、私たちのその後を決定づけるに十分な衝撃の光景でした。 今、振り返って私たちはまだ名称は定かではない「支援プロジェクト」を二人の力で立ち上げる決意をした、7月3日をプロジェクト創設の日と定めました。
 

.支援地域を「陸前高田市」と定めた被害と復興の状況!!

 支援の地域を「陸前高田市」に特定したのは、上記の被災状況を目の当たりにしたからだけでなく、この地が岩手県で突出して多い被災犠牲者(東日本全体としては宮城県石巻市に次ぐ第2位の)最大数を出した所であることを知ったからです。現在知りうる最新被害情報(2012年9月15日統計・東日本大震災被害・復興サイトより)、死亡者数1555名、行方不明者223名(認定は203名)の計1778名。これは被災直前の総人口、24246名の7.3%にも及ぶ数でした。さらに全壊・半壊住宅数の3341戸は、全世帯の41%で、4割以上の世帯が家を失っている状況がうかがわれました。さらにこの震災のわずか1か月前に就任した戸羽太という市長さんのことが知識の中にありました。。津波で奥さんを亡くしながらも不眠不休で町の再建にあたっており、、皆がちりじりばらばらになる前に「仮設の普及を」とどこよりも早くに国に申し入れて実現行動していることが報じられていました。あのきれいに仕分けされていたガレキは「自分たちのやれることはやっている、その撤去など早く国でやるべきことをやってほしい」との思いが伝わる整然さだったとも思ったのです。 実際は、仮設入居完了(避難所閉鎖)8月12日であり、あの時、急ピッチで53か所2168世帯の仮設住宅が作られていたのだとわかりましたが、その公の力を引き出すためにも、たくさんの被災地の住民の思いが強く反映されなければならない、そのために私たちの力でできることをと、私たちは帰省後、まっすぐに行動し始めました。


私の好きなこの街復興支援プロジェクト

〒659-0062
兵庫県芦屋市宮塚町12-19

TEL 0797-22-9438