第ニ十九章 若い命に二つの大震災を伝えて
-高取台中学校 2016年震災行事出演-
1.初の公立中学校での取り組みへの私たちの意欲!!
「2016年の震災行事」での講演を、神戸市立高取台中の有本直道校長先生から依頼された時、どんなに嬉しい思いがしたことでしょう。それはこの5年間に21回の東北訪問の度、「東北の
現実を、支援活動を伝えたい」と各地で講演報告を重ねてきましたが、中学生を対象にはまだ届けられていなかったからです。
村嶋がかつて中学校で、11年間大震災の心のケア坦当であった経験から、と同時に、当時の中学生が大震災の辛い記憶を書き上げた「震災新聞」(後述、講演内での話参照)に若い情熱で自分の体験を伝えようする力を思ったからでした。あの「原爆ドーム」の保存に動いたのも当時の
中学生であったことや、東北の女川の被災建物の保存運動したのも女川の中学生であった話を知り、若い力に世間を動かすことのできる力への確信を持ったからです。
高取台中学校のある長田区は、21年前の大震災時、大火事で大変な被害を受けた校区であることから、今後の巨大地震に備える防災の心を育てたいという学校側の強い思いを考え、それに応えたいとも思いました。
その「震災行事」は、2016年1月15日(金)、全校生は午後の授業をわざわざカットし、新長田駅前の立派な<ピフレホール>に移動、14時から生徒会新執行部の司会で始められたのでした。
2.中学生に伝えた二つの大震災、歌と映像の講演!!
さて東日本の被災地の最新情報と、阪神淡路大震災の記憶を中学生の皆さんに伝えるべく用意したのは、村嶋の話と、檀美知生と女声アンサンブルアモーレの歌声と映像でした。
<津波映像>のコンピューター操作にはハプニングもありましたが、それでもその映像を無事届け、また歌も話の内容もすべてを伝えることができました。以下はその内容の要約です。
もうすぐまる5年となる2011年3月11日、お昼の2時46分、<阪神淡路>が明け方の5時46分ですから、46分という奇妙な時間の一致で、M9.0の大地震が東北宮城
県沖の約100キロの海底で起こりました。この大揺れは、今日と同じ金曜日に起こりましたので、東北でも中学校は5時間目の授業中、大人たちは仕事の真っ最中でした。
でも悲劇はそれからがもっともっとでした。そうです、<大津波>です。
ここに現地で手に入れた津波の実際映像がありますので、見ていただきます。
岩手県の沿岸部に大船渡市と言う所があります。製菓会社にお勤めだった斉藤賢治さんが、大地震の発生から津波の到来まで、社員の皆さんと共に避難の時に映されたものです。
津波到来の時間はいかにあっと言う間であったかは、映像の右上に秒数を刻んでいますので合わせて見てください。後半は激しく波が街を飲み込む様子が映し出されますが、どうかこの
光景を高台に逃げのび、見られた方々の心を思ってごらんください。私たちはこの波に飲み込まれた方々のご冥福を祈って、途中から「アヴェマリア」を歌います。
~DVD 「津波映像」と歌「アヴェマリア」~
津波は何と静かに、10分もたたないうちに何とすさまじいエネルギーで、街を人を飲み込んでいったことでしょう。この海の水の大きなかたまりは、リアスの海岸線を強い引き波を伴っ
て何度も襲ってきました。時に「遡上」といって壁を這い上がるように異常な高さまで達しました。後に残った津波の泥水の線から、この沿岸部で最高は43.3メートルまで達した所もあ
ったそうです。
さて、陸前高田市は大船渡のお隣り、岩手県南部沿岸の平坦な所に街の中心街がありました。
海岸には7万本の美しい松原がありました。(HPトップページの写真参照)
街の人たちは、津波が来てもきっとこの7万本が防ぎとめてくれる、自分たちは避難所に逃げればいいと思っていました。
その避難所の1つに海岸から1キロの所に「市民体育館」という所がありました。
この日、津波が来ると警報で、この体育館には100人ほどが避難されていたそうです。
ところが地震発生後わずか10分で津波は堤防を越え、何と7万本の松をなぎ倒し、真っ黒な土煙を上げながら、市街地を襲ってきたのでした。そしてあっという間にこの体育館の中に流
れ込み、中はまるで洗濯機の中のような、大きな渦を巻いたそうです。そしてその渦は35メートルもある建物の天井までまき上がり、天井のわずか40センチの所まで迫ったそうです。
その天井の鉄骨にしがみついて生き残った人はたった3人、他の人たちは全員亡くなられてしまいました。
市民体育館は陸前高田の中心街の真ん中にあり、津波は強烈な力でその中心街をまるまる完全に喪失させてしまいました。
私と檀美知生が最初にこの陸前高田に訪れたのは、大地震発生から4か月後の7月のことでした。
松原は完全になくなり、荒野のはるか向こうに一本の松だけ見えました。(写真①)
この松は「奇跡の一本松」と名付けられ、手当てされましたが、後に枯れてオブジェとして残こされました。(写真②)
(①一本松 2011年撮影 ) (②修復の一本松 2012年撮影)
私たちが訪れた時はまだ、あの多くの命をうばった「市民体育館」も解体されずにありました。
布切れのように垂れ下がっているのは、無残に津波に押し曲げられた鉄骨です。(写真③)
そんな中、荒野と化した光景の中で、最も強いショックを受けたのは、海の間際にあった「気仙中学校」の有様でした。(写真④)
津波にぶち抜かれ、ガレキに埋もれた姿に度胆をぬかれました。
そして同時にここにいた生徒たちはどこにいったのだろうか、果たして助かったのだろうか?の強い不安の思いが湧きあがりました。
(③解体される前の市民体育館写真) (④被災の年のガレキの気仙中学校)
関西に帰ってすぐに調べると、陸前高田市は1808名もの死者・行方不明者を出した、岩手県最大の犠牲者の街であることを知りました。
高取台中学の生徒さんは約300名だそうなので、6つの中学校の全生徒が姿を消したに等しい数になりますね。
全世帯の半数の家が押し流がされ、市役所も流されて街の機能をまったく失っていることも知りました。
その中で少しほっとしたのは「陸前高田小中校生全員無事避難」との情報を得たことでした。
この体験は、私たちに21年前の阪神淡路大震災の時を強く思い起させました。
まっすぐ立っている家がないほどの変わり果てた街で、私たちの胸にある歌が流れてきました。
震災前の神戸の町並みが歌われている歌、昔の街の姿を取り戻したいとの思いでその時何度も歌った歌、「私の好きなこの街」を歌います。
~歌「私の好きなこの街」~
さぁ、東日本の皆さんを歌で励ましたい。プロジェクト名も「私の好きなこの街」と名づけて、私たちは歌での復興支援に乗り出したのです。といっても東北には1人の知り合いもいない、それならば現地でコンサートをして、会いに来ていただこう、ということになりました。
関西で仲間を募って、第1回目の公演を実現させるべく向ったのは、あの「一本松」の陸前高田でした。
ここは「たくさんの大人たちが亡くなり」「子どもたちが生き残った」街、きっとたくさんの親御さんを亡くした「震災遺児」が遺されたに違いない、そんな大切な人を喪った人たちに会いたい、会って歌で励ましたい、の思いでした。
でも、傷ついた東北の皆さんにはどんな歌が心を慰め、励ますことができるのか、曲選びに悩みました。そんな時、あちらの方言の<気仙弁>で書かれた一編の詩を手に入れることができました。
どんな姿になってもこの街が一番好きだと、まるで私たちの震災の時の心のような詩でした。
これに檀美知生が曲をつけてこの公演での初披露に間に合わせることができたのでした。方言の温かさと被災者の心のうちを現した歌は、地元の方の心にしみわたり、会場は涙、涙で感動してくださいました。今では地元で歌い継がれ、盆踊りの踊りも付けられている歌、「おらぁこごがいい」を作曲者の、檀美知生のソロ入りでお聴き下さい。
~歌「おらぁこごがいい」~
初公演は、忘れもしない、4年前の11月21日のことでした。(写真⑤)
東北ではすでに初雪の舞う、寒い夜のコンサートとなりました。
家も街灯さえも流されているのですから、真っ暗な夜道です。
会場にお借りした「第一中学校」の体育館に大きな暖房を入れてお待ちすると、厚着をしてマスクをされた被災者の皆さんが1人また1人と来てくださった時はどんなに嬉しかったことでしょう。
私たちは支援の心よ届け、と必死で歌いました。
すると、この私たちの歌声に惹かれるように1人の幼い少女が前に出て来たのでした。
この小学2年生の少女こそ、私たちがひたすら会いたいと思っていた震災遺児のお子さんでした。
海音ちゃんとの「奇跡の出会い」でした。(写真⑥)
(⑤2011年11月初公演の写真) (⑥初公演の会場で海音ちゃんとおばぁちゃん)
彼女はお父さんもお母さんも、お姉ちゃんも一家全員を津波で亡くして、おばぁちゃんに引き取られていました。(写真⑥)さらに後に知り合った朱莉・美尭ちゃんもまた、お父さんもお母さんも津波で亡くし、お兄ちゃんと3人、いとこの由希菜・穂乃実ちゃんの家に引き取られ、二家族で8人の仮設住宅に住んでいました。
(⑦希望の灯り前にて東北の子どもたち) (⑧チューリップの伝承館にて少女たち)
私たちは、この子どもたちに、この過酷な生活の中でも明るく元気に生きていく力を見出して欲しいと、歌うことをすすめ、何回も訪問をして交流していきました。(写真⑦)
その中で朱莉・海音・美尭・由希菜・穂乃実の少女たちの頭文字を合わせてAKMYHと名づけたグループを結成、歌と演技も加えてのミュージカルにもチャレンジしていったのでした。(写真⑧)
これから3年後の2014年1月に遂に彼女たちを関西に招待、共にステージに立つことができたのでした。それをTBSテレビ「ニュース23」の特集番組に取り上げてくれました、ご覧ください。
~DVD「TBS ニュース23」映像~
さて、あの「気仙中学校」の、12月末の最新の写真もご覧ください。(写真⑨)
この建物は「津波を忘れない」として被災の姿のままに保存が決まって、大きな垂れ幕がかかっていました。「ぼくらは生きる ここでこのふるさとで 陸前高田市立気仙中学校生徒会」。
気仙中学校の生徒たちはもっと高台に移転し、元気に登校しています。
きっと生徒会の皆さん中心に復興にがんばっていることでしょう。
今、この街では、土地の上に津波が来ても大丈夫なように盛り土をして、その上にまったく新しい街を創る計画をしています。
そのためまわりの山を削リ土砂を運ぶ巨大なベルトコンベヤーが盛んに動いていました。(写真⑩)
先月、私たちが行った時には、その工事は完了し、8~10メートルほどの台形状の「かさ上げ地」が姿を現していました。
でもまだこの土が固まるのを待ち、その上に街を作るにはあと2年、2018年頃までかかるそうです。(写真⑪)
(⑨垂れ幕気仙中写真) (⑩ベルトコンベヤ写真) (⑪かさ上げ地写真)
まだ赤土だけの海辺、そんな地域でも力強くここで生きる決意をしている中学生たちがいる、大切な家族を失っても明るく歌い続ける子どもたちがいる、そのことを知っていてください。
それではここに奇跡のような素晴らしい街ができますことを願って、先ほどミュージカルでも歌いました「奇跡の街」を手話振りつけも入れて歌います。
皆さんも願いを込めてお聞き下さい。
~歌「奇跡の街」~
皆さんには、家があり学校があり、仮設なんか建っていない広いグランドで自由に部活をする、そんな普通の毎日があることの大切さを感じて欲しいです。
そして普通でない日々が、神戸・阪神の街でもありました。
1995年1月17日、まる21年前となる<阪神淡路大震災>のことを少しお話します。
直下型巨大地震が発生しましたが、<津波>はきませんでした。
その替わりに大火事が広がった地域がありました。
当時の全被災地で焼けた面積の半分以上がこの長田区だったことを知っていますか?
特にこのピフレの周辺の商店街の辺りは焼野原でした。
大地震で水道管が破裂して、どうしても消すことができなかったからでした。
中には家の中で生き埋めになった人を火の海から救い出すことができなかったこともありました。
ちょうど津波の渦から救い出すことができなかった人のように、です。(写真⑫)
さて21歳若かった私は、東灘区の公立中学校に勤務していました。
東灘は倒れた家屋に押しつぶされて亡くなった人たちが最も多く出した地域で、当時の中学生たちも死ぬような思いの辛い体験をしました。
授業が始まってもぼう然としている子がたくさんいました。
(⑫長田区火事写真) (⑬1人一枚の「震災新聞」)
そこで私は、彼らの心の中のものを取り出したいと、社会科授業を使って、中学3年生たちに、1人一枚の「震災新聞」に書いてもらいました。(写真⑬)
何でもいいから震災に関すること、怖かった体験、震災のメカニズム、これからの街づくりなど、書いて欲しいといいました。
すると彼らは心の中に溢れている恐怖や怒りや疑問の気持ちと真剣に向き合い、どの子も見事な新聞を書き上げてくれたのでした。
辛い体験なのにどうして書く気持ちになったのかと、思われるかもしれません。
それは彼らはひたすら「伝えたい」と思う心からだったと思うのです。
ひょっとして21年後の中学生にも届けたいと思ったかもしれません。
今日、その200枚の新聞を一冊の冊子にしたものを持ってまいりました。
これを高取台中学校の図書館に寄贈させていただきますので、是非、後日ゆっくり手にとって、どうか彼らの心を読み取ってください。
さて最後にもう1つ、大切なことをお伝えしたいと思います。
中学生の皆さんは、福島の原子力発電所で過酷事故、「原発事故」のことを習われましたか?
あの東日本大震災時、大地震と大津波で原発はメルトダウンし、そのためかなりの放射性物質が流出し、山や街を汚して、住めなくしてしまいました。
故郷の家を失ったお話でなく、故郷そのものを失った方々がいるのです。
放射能はいつまでも減ることなく、低線量でも細胞のDNAを傷つけ、ガンなどを発生させます。汚された所は福島県だけででなく、「ホットスポット」といって放射線量の高いたまり場のような所ができてしまいました。中にはそこで顔がはれたり、鼻血がでたり、歯が欠けたり、甲状腺に異常のある子どもたちも出ています。
細胞分裂の激しい子どもたちの体にはとても悪いものです。
避難者には若いお母さんと子どもたちだけの母子避難者が数多くいて、福島県からばかりでなくそれ以外の地域からも全国へ18万人以上、この関西にも3000近くの人もの方々が来られています。
皆さんも初めて知ったという人が多いと思いますが、避難先の地域の皆さんからの理解が得られなくて、苦しく寂しい思いをされている方々が多いのです。
私たちはそれらの皆さんの支援を作品の中に歌い込め、次のコーラスミュージカル「雪の女王」のテーマ曲に、避難者のお母さんたちの我が子の未来を願う歌を創りました。その「あなたへ」をお届けします。
若い皆さんに思いをつなげ、歌います。
~歌「あなたへ」~
高取台中学校の皆さん、皆さんの若い命がここにあるのは、21年前のお父さんお母さんがご自身の命を守られたからです。
皆さんの命もまた、守りぬかれた命であることに感謝の気持ちを持ってください。
そしてその大事な若々しい命で、今も続いている被災者や避難者を支援してください。
また今日の話したことのさらなる勉強を続けてしてください、大事なことを伝えていってください。
そして先生方も保護者の皆さんもご一緒に、必ず来ると言われている巨大災害をどうか生き抜いて、未来に命を繋いでいけるようにがんばりましょう。
皆さん、その決意を後の歌声に託してください。
それではこの言葉で本日のをしめくくりたいと思います。
「伝えていこう つなげていこう 君の若い命 未来へ」
皆さん、本日はご清聴、(みんなで)ありがとうございました!!
3.「大切なもの」と「花は咲く」で最後の全員合唱!!
講演のフィナーレは、高取台中学全校生による全員合唱でした。
一曲目の歌は、私たちと東北の子どもたちとの思い出の歌「大切なもの」(「雪の女王」でAKMYHが歌いますっ!!)。
この歌は音楽コンクール課題曲で歌われた歌だったそうで、3年生の全員は舞台で、1・2年は会場から、生徒さんに指揮をしてもらい、私たちも加わって歌い上げました。
特に最後の「大切なものに気付かないぼくがいた ひとりきりじゃないこと きみがおしえてくれた大切なものを」の歌声は大きく響き、誰の胸にもこだましているようでした。
またもう一曲の「花は咲く」は、この日のために選曲して、何回か練習してのぞんでくれた歌声でした。
最後に校長先生から「今日の行事で心に何も響かない人は1人もいなかったと思う。
亡くなった方たちにはそれぞれの人生にまだまだやりたかったことがあったはず、その無念の思いを忘れず、必ず来るという東南海地震に備え、生きぬいていきましょう。」の言葉が染みいるようでした。
子どもたちからの感想文は宿題にして後日、届けて頂けるとのこと、また後日ご報告します。
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